photo by Takumi Ota

福岡県済生会飯塚嘉穂病院が開院を目前にしていた5月25日、ユネスコ「世界記憶遺産」に筑豊の炭坑画(作家:山本作兵衛 1892-1984)が日本で初めて登録されました。飯塚嘉穂病院のある飯塚市の隣で、飯塚とともに炭鉱の歴史を担ってきた田川市から申請されたもので、この登録が地域の人々にとっていかに喜ばしいことであるかは想像に難くなく、またあの地域に関わった私たちにとってもうれしいニュースでした。

炭鉱は日本の高度成長期を支える重要なファクターであったにも関わらず、爆発事故や炭鉱労働者の過酷な労働状況、結核、環境汚染などからマイナスのイメージが強くなり、石油エネルギーの成長とともに炭鉱は衰退の一途を辿ると、街は活気をなくし暗い影を落とす一方でした。

いまだ炭鉱の町というと、かつて栄えたけど今は…というような暗いイメージが少なからずあると思います。しかし実際に飯塚・田川を訪れると、炭鉱独特のボタ山(採掘の際に出る捨石が積みあがってできた人工の山)には緑が茂り、石炭の運搬に使われた川はゆったりと流れ、そこには和やかな田園の風景が広がっていて、人々の暮らしが穏やかに営まれている、そういった印象があります。それはなぜか。

photo by Takumi Ota

そもそも石炭は、太古の白亜紀にこの土地に多く繁っていた樹木であるメタセコイアが倒木を繰り返し地層となり石化したものだとされています。またこの土地は北九州側へ流れる遠賀川があり、石炭を運搬する手段も整っている地形でした。つまり人々の営みの前に大自然というポテンシャルがあり、炭鉱の町として繁栄する必然性があったと言えます。土地の自然と人々の営みという関係性・流れに無理がなく、炭鉱が産業として途絶えても、土地と自然に対する敬意と誇りが根底にあり、人々の営みは途絶えることがなった。それが、今の飯塚・田川の印象に繋がっているのではないかと思います。

語られることさえ少なくなった炭鉱という言葉ですが、過去の記憶や人々が積み上げてきた営みを否定することなく肯定的にとらえ、その歴史や積み重なりと自分たちの生が繋がっていること、生活するこの場を改めて誇りに思うことができたら、それが生きる活力となり回復力へともつながっていくのではないか。その思考が済生会飯塚嘉穂病院におけるアートワークの基本コンセプトとなっています。

地域の特色を大切に取り入れた飯塚嘉穂病院の開院と折りしもタイミングが重なった、筑豊炭坑画の世界記憶遺産への登録は、今再びこの地に対する誇りをもたらし、まちと人々の活気へとつながることと期待します。

(天野)